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『英語と日本語のあいだ』――英語教育の本とは言えない

2011.04.04.19:00

私の英語学習法についての考えは、今の日本の状況からすると、安河内哲也さんの言っていることがもっとも妥当ではないかな、というものです。インプットとアウトプットのバランスや、精読・精聴と多読・多聴とのバランスが適当だと思います。その意味で前に紹介した『英語は机で勉強するな』を基本的に支持します。

日本の英語教育についての議論を見ると、第二言語習得研究にもとづく話と、そういうものがまったくこの世に存在しないかのごとき話とが混在している状況があります。

英語で書いてあるSLAの本などを見ると、基本的にコミュニカティブ・アプローチを支持する方向にどうしてもなっていきます。しかしこれは、実際に日本の現場で使えるのか? という疑いを抱く人が多いのです。こういう教授法は、クラスが少人数で、授業時間が多数あり、学習者の母語が英語に近い言語で、しかも学んだ英語をすぐに使う機会がある・・なんていう環境で成立するものではないのか、ということです。

その教え方は「本場」であるかもしれませんが、それを、クラスが30人か40人もいるようなところで、週に90分とかあるいは50分×2回くらい、ペアワークやゲームをやったところでそれがどうなの? ということになりますね。多少は、話すのに慣れてはくると思います。それをよしとするかどうかという問題になるのですが、多くは、そういうのもいいが、それだけでいいのかな? という疑問を抱くというわけです。

それで、ちょいと目にとまった新刊、菅原克也『英語と日本語のあいだ』という新書を、図書館で借りてみました。東大の教養の先生が書いていますので、伝統的な訳読授業の立場からする反撃なのだな、と予想できますが、はたして予想通りです。つまりそういう言説を求めている読者層がいるわけですね。

しかし正直言うと、やはり「素人だな」という感じはあります。
日本人は英語を勉強する過程で英語だけに頼らず、日本語を活用しろという主張には、私は反対はありません。
著者がやり玉に挙げるのは高校の新指導要領で、授業は英語でおこなうことを原則に・・というところです。これ自体があほらしいものであることは、静先生も言っています。ただ、この指針は、文法の説明などを日本語ですることまでは禁止していないはずなので、それが禁止されると思っているらしい著者の主張はちょっと外しているところがあります。

文法の説明に日本語との対比を使うというのは、石崎秀穂さんの英文法入門書でとられている手法なので、これが結局わかりやすいということは私も同意します。

「まずは日本語で理解するというプロセスを踏む」ということは異議はないのです。著者はそういう理解の後に、音読などをおこなうという学習も提示しています。
ただ、そういう日本語で理解することから直読直解に向かうために有用と思われるセンス・グループで切る方法などは紹介されていませんね。
そのように、この本全体としては学習法としてはっきりとした絵が描けていないままに終わっている印象があります。まず日本語で文法や構文を理解して、ということ自体はいいですから、そこから、実際に日本語を使わず英語だけでわかるようにする段階へどう移行するか、それがあまり練られていない。そこは、英語教育の専門ではない著者の、教授法に対する知識不足が出ていると思います。

訳読方式の問題は、日本語で意味をおさえることをする点にあるのではなく、訳して終わりになりがちで、いちおう日本語で意味がわかった英文をさらにどう料理していくか、という部分がないということなのです。ですからそこを、英語教育の専門家もうなるようなメソードと成果を示してくれないと、説得力がいまいちになりますね。

訳読の擁護は、同時に訳読授業の改革への新しいヴィジョンとして教育法がわかりやすく提示されているべきです。この本にはその部分がなく、なんとなくエッセイ的に書き連ねて終わってしまってますね。

たとえば、
具体的には、訳読を「精読」と位置づけ、日本語で意味を押さえることを確認します。この場合、生徒に訳させるのか、それとも和訳を先渡しするのか、はっきりした方がいいでしょう(もちろん後者が望ましいと思います)。さらに、それとともにCDなどのリスニングを活用したり、センス・グループを使う、そして音読の活動(発音指導をしておくことが前提)、flip writing などの「暗写」的なもの、そして最終的にはシャドーイングや暗唱・・こういったいろいろ活動を展開していけます。それとともに、精読を多読とどういうバランスで行けばいいのかということなどです。そこまで行ってはじめて「英語教育の本」になるのだと思います。

英語力を先まで伸ばすのに「読み」が先行し、その他の技能はそれにキャッチアップしていく、という形になるだろうということは、特に日本の場合いえると思います。

ですから「読み」が牽引車となることは事実なのですが、問題は、その「読み」のレベルに「聞く」や「話す」が追いつかないというところにありました。
そして、「聞く・話す」を「読み」のレベルと同等にするには、「読み」も直読直解レベルでないといけないわけです。いやむしろ、音声を入れることによって直読になっていく、という面もありますね。そうした総合的な「精読」へと発展させる、という提言が明確に打ち出されていれば、訳読の擁護は説得力あるものになったかもしれません。つまり、「訳読」と「精読」の区別があいまいなままなのです。

というわけで、学習法の本としてはそれほど意味ある本とは思えないのですが、雰囲気的に劣勢になりつつある、訳読授業を続けたい英語教師という層のための理論武装を試みた本と言えそうです。

著者も、英語学習者のレベルを高く設定していることを認めていますが、そもそも、英語の文章がすらすら読めるというレベルを、高校生のすべてが達成しなければいけないのか、という問題があります。鈴木孝夫氏の主張ではありませんが、それははっきり言ってエリートの立場ですね。
つまり菅原氏の主張も、「この指導要領ではエリート養成に支障をきたす」という、東大教授としての危機感がベースにあることを見逃してはなりません。
しかしそれなら、そもそも国民全体に対する英語教育のあり方とは、というもっと根本的な議論があっていいのではないでしょうか。

私に言わせれば、英語で論文が読めるなんて、そんなに簡単なことではありません。そういうことができるのは一部のトップランクの大学以外にはいらないです。80%以上の人は、英検3級レベルくらいまでで、その範囲で話す・聞く・読むができる、というレベルを設定するのが現実的です。
ですから結局、英語教育の目標の複数化、多元化も問題になるのです。菅原氏の訳読擁護は、エリート養成という場から出ていますが、英語教育は全体としてどうなるかというヴィジョンがあまり見えません。その意味でも中途半端に終わった感じがありますね。
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プロフィール

SH

Author:SH
東京大学大学院総合文化研究科出身。現在、地方の公立大学教授。第二言語習得研究・音声学等の知識をもとに25年以上にわたり英語教育に携わる。
TOEIC990点。
英語のほかいろいろな言語をやってみました。フランス語・ドイツ語・中国語も本を読むことはできます。現在は中国語とロシア語を学習中で、自分の外国語学習理論による多言語習得をめざしています。ハングル能力検定3級合格。

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