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鳥飼玖美子さんの『英語教育論争から考える』

2014.11.30.23:35

久々の更新となった。鳥飼玖美子さんの『英語教育論争から考える』を読んだのでそれについてちょっと書いてみる。
いわゆる平泉試案をめぐる考察が行われている。まだ健在の平泉氏・渡部氏や当時の文部省幹部などにもインタビューしてまとめてある。平泉試案というものが今読んでさえラジカルであり新しい、ということに改めて驚く。本の後半は、コミュニケーションとは何かという話が中心となっており、重要なことではあるものの、鳥飼さん自身も書いているように途中からちょっと軸が違ってきたような印象を受けた。できればもっと平泉試案論争で全編押し切ってもらった方がさらに面白かったかもしれない。

またこの論争が死んではないことは、今でさえなお、「渡部派」のような、訳読の知的訓練を説くような大学教授の本が時折出版されていることからもわかる。
しかし時代の流れはたしかに「コミュニケーション」重視だ。そのコミュニケーションということを、平泉氏は決して「会話」に矮小化してはおらず、四技能すべてにわたるある水準のスキル、ということを言っていた。インターネットの時代で、外国人と仕事をする際にはむしろメールが中心となっており、話すことと違って書く英語では文法的間違いなどはかなり悪い印象を残すので、読み書きはむしろ重要になっている。読み書きではなくて会話だ、と言うような人はもはや頭が古いことになっている。
鳥飼さんの意図は、そのコミュニケーションということをあまりに道具的にとらえすぎてはいないか、コミュニケーションということをもっと考えて見ろ、ということのようだ。

詳しくは、この本を読んでいただくとして、以下には「もうちょっとここを掘り下げては」というところを書いてみたい。

鳥飼さんは平泉試案の現在からの評価として「外国語教育を事実上国民子弟のすべてに対して義務的に課することは可能か」という問いを検証しているが(66ページ以下)、ここの節は短く、あまり詳しく論じられていない。
平泉試案では、高校での英語を完全に自由選択にすること、全国民に対しては、中学において今の中学一年程度のごく初歩だけを教える、という提言をしているのであり、ここの点を鳥飼さんは真っ向から向かい合っていない(ように見える)。

つまり、「国民子弟のすべてに対して義務的に課する」というより、「国民子弟のすべてに対して一律の到達目標を設定することの是非」を問題として立てるべきではなかったか。
ほんの初歩を教えるのは、言語についての見聞を広めるという「教養的意義」によるものである。そして、それ以降も学び続けるかどうかを選択にするのならば、「なぜ英語をやらねばならないのか」という問いは生じない(英語が事実上の世界標準語としてなっている現状は公正か、というレベルまで行くのならば、その問いは生じるが)。
金谷憲氏なども、到達目標を複数化して、大半の人は高校卒業段階で中三レベル(英検3級)、一部の人のみ高度なところまでやる、という案で、これは平泉氏の精神を受けついでいる考え方である。それを、高校までは必修にするが多くの人にとって目標値を下げる、という修正を加えたものである。また、鈴木孝夫氏も同じような目標複数化を主張している。

平泉試案では、日本語と英語との「言語間の距離」にも言及していて、英語がそれだけ習得に時間がかかる言語であるという事実認識に立っている。つまり、今のような授業時間数ではできるようになるはずがない、という冷厳なる認識がある。単純に、学習時間が不足しているのだ。それを、英語は習得に時間がかかるという認識がないまま、教授法が悪いせいだということになってしまっていることが、素人の議論では多いのだ。

英語を小学校から開始する学年を下げる動きがあり、それにより、ますます高校卒業時の目標は高く設定されそうだ。だが、高卒時に全員が英検2級レベルというのは、現実的な数字と言えるであろうか。

はっきり言って、今まで、学校の授業の勉強だけで英語ができるようになった人は、一人もいない。
英語を高度なレベルまで習得するための「習得時間」は、どう逆立ちしても、授業時間だけでは絶対に確保できない。その他にどれだけ自分でやるか、しかない。だから、授業時間は、「教師がいなくてはできない学習」にフォーカスするべきだろう。
対面でなくてはなしえないスキルの養成。特にそれが言えるのは、音声面の指導だろう。
そして、学校というものが持つ「強制力」。つまり、いやおうなく勉強せざるを得ない環境、ということだ。だから学校の重要な任務は、テストをすることである。定期テストだけでなく、できるだけ、勉強してこなければいけないような環境を作ることである。

そこで、この本で知ったのだが、なぜ学習指導要領に「英語で授業することを基本とする」と書かれたのかというと、日本では教室の外にはまったく英語の環境がないので、せめて英語の時間だけは英語でのインプットを確保しよう、という意図があったのだという。当時の文部省幹部の言葉だ。
だが、週三時間か四時間、英語の環境になったところで、それもまた絶対的に足りない。
そのように、授業時間だけで英語力を担保しようという発想そのものに限界がある。
むしろ、いかに、自宅で英語の音声を聞き、自分で声に出す練習をしてもらうか、それを考えないといけない。
だから授業では、教師でなくてはできない音声指導などに力を入れて、英語をたくさん聞くということはある程度CDに任せてもいいのだ。CDを聞き込むことが評価に直結するしくみにするのだ。

要は、英語学習を授業だけで完結するように考えても限界がある。自分で何をどうやるのか、それを含めた上でその人の英語学習全体をデザインするような発想が必要だ。その意味で、鳥飼さんもまだ授業中心に英語教育を考えすぎているところは残ると思う。これは今の英語教育法という分野そのものの限界だが。

その意味で、日本の英語学習を変えたのは、実はTOEICであると思う。
これによって、英語を自分でやり、成果を出すにはどうしたらよいか、という問題意識が広まったのである。
今のTOEIC学習書の中には、技術のみを説明しているものもあるが、スコアと同時に英語力を伸ばすという意図で書かれたものも数多くあり、リスニング学習や音読などの練習法が提示されたりしている。「隙間時間を有効に使ってできるだけ英語に触れていかないと英語力は伸びない」というのは、TOEIC学習においては常識となりつつあるだろう。
むしろそれこそが、これまでの英語教育に不足していた視点である。つまり「いかにしてインプットの量を確保するか」である。英語授業の少なさという絶対的な限界を前にして、自学による徹底したインプット量の確保ということを前提として、その中に対面授業を最も有効に組み入れるには何をやればいいか・・このように発想を転換すればよいのだ。これは当然、自由選択によってそれを選んだ人にしか適用できないやり方かもしれないが。

いかによい教授法を取ったとしても、授業時間中心であるならば、高卒までに英検3級レベルというのが現実的な目標となると思う(なおこれは、中卒程度の英文が「読める」だけでなく、その範囲ではある程度話せる、ということも含んでいる。ほとんどの人にとって、それ以上の英語力は必要ない。中学程度で話せれば十二分ではないか。中学英語がわかってないままに高校を出る人がいかに多いか。そういう人にとって高校英語はほとんど無駄な時間なのである。この場合、高校で中学の内容をしっかりやる方が、高校の教科書を教えるよりずっといいはずだ)。
授業だけで全国民子弟に2級の力をつけさせるという日は、決して訪れない。凖2級でも怪しいだろう。

それにしても、平泉試案、今でもまだ価値を失っていない。


英語教育論争から考える英語教育論争から考える
(2014/08/09)
鳥飼 玖美子

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プロフィール

SH

Author:SH
東京大学大学院総合文化研究科出身。現在、地方の公立大学教授。第二言語習得研究・音声学等の知識をもとに25年以上にわたり英語教育に携わる。
TOEIC990点。
英語のほかいろいろな言語をやってみました。フランス語・ドイツ語・中国語も本を読むことはできます。現在は中国語とロシア語を学習中で、自分の外国語学習理論による多言語習得をめざしています。ハングル能力検定3級合格。

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