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アジア英語

2010.12.20.21:32

こういう本を読んでみました。

アジアをつなぐ英語―英語の新しい国際的役割 (アルク新書 (14))アジアをつなぐ英語―英語の新しい国際的役割 (アルク新書 (14))
(1999/04)
本名 信行

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アジアの英語事情を書いている本で、ネイティブ志向の日本の英語教育に疑問を呈しています。
なかなか、考えさせられました。

たしかに多様な英語があります。そこで、教育に関して言えば特に発音において、どのへんに標準をおけばいいのかむずかしいところがあります。
著者は、あくまでいちおう英米のスタンダードは教えるけれども、結果としてできなくてもいい、ということを言っています。

靜先生の発音本にも「ノンネイティブとしての標準」という考えが入っていることはわかりました。ただ、それがかなり高いレベル(英米の標準に近い)ものではありますが・・ たとえば母音での「R化」は無視してよい、などですね。

日本でのネイティブ崇拝はすごいですね。英語学習本のタイトルには「ネイティブ」の文字が躍りますし、英会話学校もネイティブ志向です。それも、アングロサクソン系であることが求められたりするのが現実です。オンラインスクールでもネイティブの授業はフィリピン人なんかの何倍も高いですし。

「英語の映画が字幕なしでわかる」のをめざすのだって考えてみればネイティブ信仰かもしれません。これは、ネイティブのきわめて日常的な言い回しをたくさん覚えてないとわからないのですが、そういう勉強をしても、ノンネイティブと話す場合には何の役にも立ちません。つまりネイティブ英語とはそれ自身、かなりローカルな英語なのです。世界にいろいろあるローカルな英語の一つなのですね。ですから、どうしてもそれとつきあう必要のある人だけがやればいいものであるのです。国際的な実用語として英語を学ぶ分には、洋画がわかるなんてのはまったく必要のないことです。講演みたいなのはわかってもネイティブどうしの会話はよくわからないというのはきわめてあたりまえのことなので、それでいいのです。その国で生活しなきゃいけないという時に習うものです。

それにひきかえ「中国人と英語で話すための本」とか「インドにおけるビジネス英語を学ぶコース」なんてものはまったく存在しませんね。

とはいっても・・・とはいっても、日本の英語教育に音声面がかなり欠落していることもたしかに事実なのです。
日本英語といいとは言っても、どこまで教えるのか、なかなか標準のとり方がむずかしいです。

この本にはアジアの英語教育事情も出ていますが、リーディング重視のところが多いということでした。
やはり、情報を取り入れることが重要と見なされているのでしょうかね。
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「コストパフォーマンス」の思想がない英語教育政策

2010.12.18.01:29

来年から小学校での英語が「強行」されます。時代はますます、鈴木孝夫氏の論とは反対の方向へ向かっています。
どうあっても、全国民が英語をある程度できるようにならなければいけないらしい。文部科学者はそのように思っています。しかし、なぜそうなのか。現実的にほとんどの国民は英語などなくても生きていけるという事実があり、モチベーションが維持できないことは現場からすればこれほど明らかなことはないのに。

鈴木氏はあくまで英語は「エリート」に必要なものだ、と断定しています。しかし文科省には明らかに「平等主義」があります。エリートとそれ以外で到達目標に差が出るのを好まない。文科省の審議会などに出る人はみなエリートばかりであり、中高で英語など苦もなくできていた人ばかりなわけで、そういう才能のない人たちの気持ちがわからないのです。これほど言語のシステムが違っている英語というものを多くの国民が話せるというのは、インドやフィリピンのようにそれなしでは社会が成り立たないという条件がある場合に限られています。

靜先生は英語教師に英語ができない人が多いとさかんに言っていますが、裏をかえせば、それだけいい教師が確保できないという現状にあるわけです。本当に英語ができる人は教師などという割の合わない職業にはつきたがりませんね。

学校だけではありません。塾や家庭教師でたくさん英語が教えられていますが、それを教える人はどの程度英語ができるのでしょうか。大学生のバイトなどが多いですが、ほとんどの大学生は発音もめちゃくちゃだし、TOEIC600点以上取れる人も全体からすればわずかです。600点以下の人が英語を教えてしまっているわけです。それでも文法や和訳の問題の解き方は教えられるわけですが、そういう問題が解けるようになることがどれだけ英語力の向上につながるのか、こういう人たちは見透すことができないでしょう。児童英語を教える人たちも英語力はどのくらいのものでしょうか。

本当は最低でもTOEIC800点以上あるくらいでないと英語を教えてはいけないと思います。しかし、全国民に英語を教えようとするとそれだけの教師が確保できないのです。これが現実です。
ちまたで教えているネイティブの会話講師にしたって、ただネイティブというだけで、英語教育の訓練はほとんど受けていません。しかもナマリがあってもおかまいましです。

クオリティの高い英語教師というのは残念ながらかなり少数なのです。教師の平均的なレベルを上げるには、鈴木孝夫氏が言うように受講者数を十分の一くらいに絞るしかないわけです。英語力の低い人がたくさん教えているのは、習う人が多すぎるからです。

これはつまり、英語に上達するのは、日本人には本当にむずかしいのです。その難しさはだいたいアラビア語と同じくらいです。

英語を学習するということは、そのぶんだけ、ほかの勉強ができなくなるわけです。

英語のネイティブは、まったく外国語を勉強することなく、そのぶんの時間を、専門の勉強に当てられます。
これがどのくらいのアドバンテージであるか、いうまでもありません。
ノーベル賞が多いなんて、あたりまえのことです。
ですから、鈴木孝夫氏のいうように、日本語を普及させるよう血眼にならなければならない、というのは当然なのです。
英語に時間を割けば割くほど、専門的な学力は落ちるのですが、それでいて英語が結局中途半端で何も使えない状態で終わるなら、これは大いなる時間の無駄となります。
私は、鈴木孝夫氏の論にもっと耳を傾けるべきだと考えます。

日本の英語教育政策の誤りをまとめればこんなところでしょうか。

◆英語は勉強すれば簡単にできると思っている。英語の難しさをわかっていない。
◆英語が必要でない人が多いという明白なる事実を認めない。
◆英語ができることを無条件によいことと見なしており、「必要悪」という認識がない。したがって、コストパフォーマンスの思想がない。
◆戦後から一貫してつづく平等主義のため、到達目標の複数化を認められない。

また国民の側も、英語ができることを無条件によいことだという思想からなかなか抜け出られません。それで子供に英語を習わせたりしますね。

しかし、英語を捨てて、人が英語をやっている時間をほかの勉強にあてれば、その分野で抜きんでることができるかもしれないのです。そういう発想をすることがなかなかできません。成功したら、必要ならば通訳をいくらでも雇えばいいのです。英語のネイティブはみなそうしているのです。

時間は有限なのですから、何を拾って何を捨てるか、そのへんは決断なのです。これがコストパフォーマンスの思想です。
英語は、本当にやりたい人、やらなければならない人だけが習うものです。

もし外国語を知ることが言語についての教養を高めるというのなら、中国語でも韓国語でもアラビア語でもアイヌ語でもいいはずです。そして到達目標は簡単な挨拶ができ旅行ができる程度でいいのです。だから私は、もし全国民に英語をどうしても課すならば中学校だけで、英検5級程度をノルマとすればいいと思います。それ以上は選択化すべきです。本当は、中学でも他の外国語との選択ができるといいですね。

グルグル授業DVD

2010.12.13.22:59

ついに見ました。靜先生によるグルグル授業のDVDです。ちと値段は高いが、テレビの前に座って授業見学ができると思えば安いもの・・というわけで買いましたが、その価値はありましたよ。

http://www.japanlaim.co.jp/fs/jplm/847/5707

まず、授業に登場した靜先生の、派手な色の革ジャケットにストールといういでたちにびっくり。ミーハーな感想ですが、実際座っている生徒の目線からすればまずそのヴィジュアルインパクトから入りますからね~

これ一本みればグルグル授業とはだいたいどういうものかわかるしくみになっています。「教師の目線になって発音を直してみよう」なんてコーナーもあります。スピーチや歌のグループ発表に向けてダメ出しをしていくところなども収録されています。

見ていて思わず笑ってしまったのですが、どこがおもしろかったのでしょうかね~ 生徒の変な英語と先生のダメ出しの呼吸がなんとなく漫才的なおもしろさを感じさせたのかもしれません。この授業はやってみるとわかるんですが、教師の方もかなり楽しいんです。靜先生はマジメな顔をしてやってますが本当はすごくおもしろいんでしょうね。

さて私がこれで確認したかったことの一つは、『英語授業の心技体』では、一人あたり原則数秒なんて書いてあったので、それで、「こう練習すればいい」とかのアドバイスはどうするのか? ということだったのですが、見ていると、確かに数秒で打ち切りにする場合もありますが、けっこうケースバイケースなので、「もう一回やってみな」と言うこともありますし、いろいろと練習法を説明して一人最大40秒くらいかけたこともありました。ですのでその辺は臨機応変に、なのですね。

あとは、細かいところですが、グルグルをするときの教師の動線、生徒の立ち位置です。ただこの点は、このDVDでは生徒が12人くらいと少数であり、机・いすの数が少なく、それが教室の中央に集められていて周囲にはかなりスペースがあります。しかし実際の教室ではもうちょっと通る通路は狭いのでそこはどうするのかな~というのは残りました。私は、始まるときに机といすを後ろに寄せるとかするのかな(中学高校で掃除をする時みたいに)とも思いましたがそうではないようです。

グルグルは、ペアワークよりもずっと簡単に導入できるアクティビティーだと思います。というのはペアワークのように詳細に設定をしておく必要がなくて、課題をいくつか決めてチェックシートを作っておくだけでできるからで、そのわりに生徒がよく活性化するのですね。というわけで、一斉授業の割合をできるだけ最小限にしてグルグル中心に授業を組み立てていけば教師も生徒も楽しい授業ができます。私も少し取り入れてみてそのことはたしかに実感しましたね。残念なのは、これをもっと早く知っていればよかったということですね。グルグルとして正式に公開されたのは去年(2009年)のことですからね~ 多くの教師がこのDVD見てもっとこのメソードが広まるといいと思います。

鈴木孝夫氏の外国語教育論

2010.12.13.21:47

さらに鈴木孝夫氏の外国語教育論です。
前の「言葉のちから」とあわせてこの三冊くらい読むとだいたいわかるでしょう。

むむ・・説得力ありますね。読んでいるとその通りと思えてしまいます。

英語必修化をすべてはずすという主張は、私も実はそれが理想かも、と思っています。
たしかに、外国語を知ることは母語を知ることでもある、という教養の立場から教える(数学が実用というより論理的思考を鍛えるという目的で教えられるように)という考えもありますが、それでいえば、なぜ全員が英語なのだ、日本の置かれた位置から言えば、なぜ中国語・韓国語などがないのか、という主張も当然出てきますからね。

前にも書いていますが、鈴木氏には「コストパフォーマンス」という思想が入っているのが一つのポイントです。つまり、外国語習得というものには多大のコストがかかるもので、「必要悪」であるという理解があるかということです。日本人のほとんどにはその理解がなく、外国語習得を「無条件のよいこと」と思っている。しかし、世界的に見れば、外国語をやらないとやっていけないという人は「弱者」なのであり、その条件を丸呑みにして黙っているのではなく、少しでも自分に有利なように変えようとすべきである――つまりここでは、日本語を世界に普及させるようがんばるべきである、ということになりますね。

日本人の外国語への感覚が「世界標準」ではないということに無自覚でいる中で、「何が国際理解か」ということにもなりますね。


英語はいらない!? (PHP新書)英語はいらない!? (PHP新書)
(2000/12)
鈴木 孝夫

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日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)日本人はなぜ英語ができないか (岩波新書)
(1999/07/19)
鈴木 孝夫

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英語教育の必修をやめよ、という主張

2010.12.08.18:47

こちらの本を見たのですが、

言葉のちから (文春文庫)言葉のちから (文春文庫)
(2006/11)
鈴木 孝夫

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文明論から、日本における外国語の問題を論じたものです。ほかの本でもだいたい似たようなことが書いてあるので、特に新しいことはないのですが、なかなか読ませますね。

鈴木氏の外国語論を支えているのは、「外国語をやることが無条件によいことではない」という認識です。外国語を学ぶことはすばらしい、というのは日本独特の価値観なのです。多くの国にとって、外国語とは、押しつけられるものであったり、自国語ではすべてをまかなえないからしようがなくやらざるをえないもの、だったりするのです。つまり本当はそんなに外国語にコストをかけたくはないけれども、生き残れないからしかたなくやるもの、というものなんですね。それが世界的には普通なんです。その言語を学んでもらえる国は得をしますし、学ばざるを得ない国は損をします。そういう力関係が背景にあります。それを見ないのはナイーブすぎるんです。

ところで現実に日本では、英語ができなくても生活に困ることはあんまりないわけです。これはむしろすばらしいことである、という基本認識が鈴木氏にはあります。文明論的に考えればその通りなんですよ。「英語は必要である」というのはイデオロギーなんです。全国民に英語が必要であるわけはないんです。日本はそういう状況にはおかれていないのです。

この基本認識が共有できないと、鈴木孝夫の英語教育論もわからないことになりますね。鈴木氏は英語がものすごくできる人であるわけですが、「英語が本当にできるようになるためにはどれだけのコストがかかるか」ということもよく知っています。当然、今の中学、高校の授業で満足なだけできるようになるわけがないこともわかります。

困ったことですが、私は基本的に賛成なんですよね、つまり「英語をやらなくても困らない人は、やらなくてよい」という主張に。つまり必修はやめよという論です。少数精鋭主義ですね。これは1970年代のいわゆる「平泉試案」の路線なんですが、私は基本的にそれが正しいと思ってます。やりたくない人は、やらなくてもいい。あるいは妥協して、「言語についての知見を広める」という意味で、つまり数学を「論理的思考を鍛える」という意味で教育するように、外国語の初歩を教えてもいいと思います。しかしそれは、せいぜい外国旅行で使える程度にして、「英語で主張ができる人間」など養成しようと思わない方がいいということです。

もっともこれは日本の戦後教育に共通した「平等主義」の原則を変えて、「エリートコース」とその他を分けるという思想ですから、反発は強いでしょうね。そしてエリートには「発信型の英語」を求めるというのが鈴木氏の考えです。

「英語は必要である」というのはお題目であり、真実ではないのですが、それによって多くの利権が支えられているという側面もあります。しかしまあ、少数精鋭主義にすれば、本当に英語力のある教師は失業することはないでしょう。私も英語のオール選択化を訴えていきたいと思います。全国民が英語を相当程度にできるようにする、というのがどれだけのコストがかかることなのか、そういうコストパフォーマンスの発想をしないので、そういうことが本当に必要なのかという議論が出ないのでしょうね。

一つ引用しておきます。

本当に英語を必要とするのは、仕事の正否が英語力の有無に左右されるような人で、こういう人たちは日本人のごく一部です。よく指摘されるような、英語ができないと国際競争に勝ち残れないという警鐘は、政治家や一部の官僚、一部の研究者など政治や経済、学問の最前線で国際社会の矢面に立たなければならない人たちに向けられているのであって、全国民を対象にした話ではありません。にもかかわらず、これからの日本人は英語くらい話せるようになるべきだ、といつのまにか国民全体に問題が転嫁されてしまった。だから英語を必要としない人まで義務教育における必修で学習を強制した反面、本当に高度の英語力が求められる人材がいつまでも育たないという困った状況になっているのです。 言葉のちから、p.235-6



英語学習における「コストパフォーマンス」の重要性を説いたものとして、次の本もあります。

捨てる英語、拾う英語 (アスカビジネス)捨てる英語、拾う英語 (アスカビジネス)
(2008/08/07)
井上 大輔

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プロフィール

SH

Author:SH
東京大学大学院総合文化研究科出身。現在、地方の公立大学教授。第二言語習得研究・音声学等の知識をもとに25年以上にわたり英語教育に携わる。
TOEIC990点。
英語のほかいろいろな言語をやってみました。フランス語・ドイツ語・中国語も本を読むことはできます。現在は中国語とロシア語を学習中で、自分の外国語学習理論による多言語習得をめざしています。ハングル能力検定3級合格。

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